わが裏庭の垣のほとりに一株の臘梅あり
ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる数朶の花をつづりぬ
こは本所なるわが家にありしを田端に移し椊ゑつるなり。
嘉永それの年に鐫られたる本所絵図をひらきたまはば、土屋佐渡守の屋敷の前に小さく「芥川」と記せるのを見たまふらむ。
この「芥川」ぞわが家なりける。
わが家も徳川家瓦解の後は多からぬ扶持さへ失ひければ、朝あさのけむりの立つべくもあらず、父ぎみ、叔父ぎみ道に立ちて家財のたぐひすら売りたまひけるとぞ。おほぢの脇差しもあとをとどめず。
今はただひと株の臘梅のみぞ十六世の孫には伝はりたりける。
臘梅や雪うち透かす枝の丈
(大正十四年五月)
今の日本語
これは本所の養家にあったのを、田端に移椊したものです。
嘉永の年に作られた本所の地図を見ますと、土屋佐渡守の屋敷の前に小さく「芥川」と記されています。
この「芥川」というのが私の家なのです。
私の家も徳川家が瓦解してからは、もともと多くはなかった扶持さえ失ってしまい、毎朝登る釜戸の煙も立つことはなく、父上とおじ様が道に立って家財の類をも売っておしまいになったという。
幅広の脇差も手放してしまいました。
今はただ一本の臘梅だけが十六代目の子孫に残されたのでした。